向こう隣のラブキッズ


第6話 誰にも言えない秘密なの


立春にはまだ少し早い1月の末。このところ、しおりは学校から帰って来ると、ずっと部屋にこもっていた。大好きなテレビも見ず、夕食が終わるとすぐにまた、いそいそと部屋へ上がって行ってしまうのだ。そんな娘の姿を見て不審に思いながらも、父はいろいろと想像を巡らせていた。
「しおりちゃんは一体どうしたんだろうね? 勉学の季節に目覚めたか、それとも冬の読書週間でも始まったのかな?」
父が食後のお茶を飲みながらつぶやく。テレビではバラエティ番組が流れ、賑やかな笑い声が響いている。
「読書ったってどうせマンガだろ?」
一人でのんびりと食後のおやつを食べていた歩が言った。
「あら、いいじゃないの。マンガだって何だって読む気になってるんなら……」
母が洗い物をしながら笑う。

「小学6年生ともなれば、だんだん勉強も難しくなるからな。さすがは私の娘。随分としっかりしてきたじゃないか」
父は満足そうにうなずく。
「へっ。どうだかね。しおりの奴、最近怪しいからさ。姫乃と危ない関係になってたりしてね。年末年始の間に悪い遊びを覚えちゃったりしてさ」
歩の言葉に父の顔色が変わった。
「何? それは本当か? 歩」
「さあね」
歩はバラエティ番組を見てへらへらと笑っている。

「まさか、うちの子に限ってそんなみだらな娘に育っているとは思えないが、万が一の間違いってこともある。歩、もしも知っていることがあるなら、全部話してごらん?」
父は歩の両肩をつかむとゆさゆさと揺すった。
「知っていることったって……」
歩は困ったような顔をした。が、そんな状況の中でもまだ、しきりにスナックを口に運んでいる。
父はその袋を取り上げて言った。
「言いなさい。お父さん、怒ったりしないから……ね?」
真剣な表情でじっと息子の顔を見つめる父。
「そんなに気になるんなら、自分で直接行って確かめてみればいいじゃないか」
歩の言葉に父はショックを受けた。
「そ、そうか。事はそこまで進んでいたか……。わかった。真実を恐れることなく、父さんが直接行って確かめよう」
そう言って父が立ち上がった時にはもう、歩はテレビのギャグに大笑いしていた。


その頃、しおりは部屋で毛糸と格闘していた。
「げっ、また網目が足りなくなっちゃった」
しおりは編み棒に掛かっている網目を抜くと、また数え直して続きを編んだ。足元にはピンクと水色の毛糸が転がっている。
「今年のバレンタインデーに間に合うように編むんだ。手編みのマフラー……。姫乃お兄ちゃん喜んでくれるかなあ?」
しおりはわくわくしていた。二人おそろいにするために選んだ、ピンクと水色のしましま模様。
「今からでもがんばれば、バレンタインデーまでには編み上がるよね。うふふ。楽しみ!」
しおりは妄想にふけってにやにやしていた。

「あ、いけない。また網目を落としちゃった」
しおりはまた編み棒から幾つかの毛糸の輪を抜いた。なかなか揃わないので何度もやり直している。
「でも、きっと大丈夫よ。バレンタインデーまでにはまだたっぷり2週間もあるんだもん。それに、編み物をやるのは初めてなんだし、はじめから上手く行かなくたって当たり前よね。やっているうちにだんだん要領をつかんで上手くなればいいんだから……」
編めた部分はまだ1センチにもなっていなかったが、しおりの小さな乙女心は幸せな感情でいっぱいだった。と、その時、隣の家の階段を誰かが上る音が聞こえてきた。

「あ! 姫乃お兄ちゃんだ」
しおりがパッと顔を輝かせた。向かいの部屋に明かりが灯り、窓が開いた。
「しおりちゃん!」
姫乃が呼んだ。
「お兄ちゃん、お帰りなさい」
しおりは持っていた編み棒を放り出すと、急いで窓を開けた。
すると、姫乃は窓を乗り越えて部屋に入って来た。そして、しおりに抱きついてわんわん泣いた。

「どうしたの? お兄ちゃん。また、誰かにいじめられたの? なら、わたしがそいつをブッとばしてやる! 誰にやられたの? また例の3人?」
が、姫乃は首を横に振った。
「ちがうんだ。でも、僕はもう駄目……。生きている価値もないんだ!」
と、更に泣き方が激しくなる。
「お兄ちゃん……。大丈夫だから、落ち着いて、順番に話してちょうだい。何があったの?」
しおりが訊いた。すると、彼は涙をこぼしながらも何とか言葉を繋いで語り始めた。

「秋と冬に出した懸賞小説、みんな落ちちゃって……。自信があったのばっかりだったのに……一次選考にも残らなくて……。僕って才能ないのかしら? 出しても出してもこんなに没になるなんて……。僕はもうおしまいだ。絶望だ。世界の終わりだ、どうしよう!」
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。泣かないで。お兄ちゃんの小説を没にするような連中は、きっとみんな地獄に落ちると思うわ。いいえ、わたしが責任持って突き落としてやるから安心して……」
「本当?」
「そうだよ。お兄ちゃんの才能のこと、一番わかっているわたしが言うんだもの。間違いないよ。だから、ねえ、元気を出して……」
「うぇーん。ありがとう、しおりちゃーん」
彼女の言葉に強く胸を打たれた彼は感激して、また涙をこぼした。そして、しおりに思い切り抱きついてその小さな胸に顔を埋めた。

「そ、そこで何をやっているんだ……!」
部屋の入り口に立った父は呆然として、そんな二人を見つめた。指先と頬と何故か大胸筋がぴくぴくと震えている。
「何をって別に、いつものことだけど……」
しおりが振り向いて言った。
「い、いつもそんなことをしているのか? そ、そんな破廉恥で恥ずかしくて、うらやましいことぉ……!」
父は声まで震わせて言った。

「ちょっとお父さんってば何想像しちゃってるの? 別にこんなこと普通じゃない。みんなやっていることでしょう?」
「そ、そうなのか? しかし、二人はまだ、ほんの小学生と中学生なんだし……」
父は動揺を隠せずにいた。
「ご、ごめんなさい。みんな、僕がいけないんです」
姫乃が言った。
「僕が感情を抑えられなくてつい……。だから、しおりちゃんを叱らないでください。悪いのは僕なんだ」
そう言って、姫乃は再び大声を上げて泣き出した。
「お兄ちゃん……」
しおりがそんな彼の背をやさしくさする。

「ほんとにみんな僕が悪いんです。僕に才能がないばっかりに……しおりちゃんにおまんじゅうの一つも買ってあげられない。こんな僕がいけないんだぁ」
そのあまりに悲しそうな叫びに、父も思わずもらい泣きした。
「姫乃君、君はそれほどまでに、うちのしおりのことを……」
「はい。しおりちゃんは、僕にとって大切な……」
言い掛けたまま、声を詰まらせている。しおりは、その続きの言葉を聞きたかったが、彼はそれ以上何も言えないようだった。
「いいよ、お兄ちゃん。もう何も言わないで……。さあ、これで鼻をかんでね」
と、ティッシュを渡す。
「うん。ありがとう」
彼はようやく泣き止むとティッシュで涙を拭き、鼻もかんですっきりした。と同時に、大切なことを思い出したように叫んだ。

「そうだ! あと一つ、発表されていないのがあった!」
「そうよ! それよ! きっとそれで大賞取れるわよ」
しおりの元気な声に勇気づけられて姫乃も笑う。
「そうだね。僕もそんな気がしてきた」
笑顔を取り戻した姫乃が言った。と、その時、タイミングよく姫乃の家の電話が鳴った。
「あ、僕の家のだ」
そう言うと彼は急いで窓を乗り越え、自分の部屋へと戻って行った。そんな彼の後ろ姿をうっとりと見つめていたしおりが、突然振り向いて父に言った。

「お父さん! いきなりやって来て変なこと言うなんてひどいよ。姫乃お兄ちゃんにちゃんと謝ってよ」
しおりが言った。
「ああ。そうだね。考えてみれば、二人にそんなことができる訳ないよね。いや、お父さんが悪かった。とんだ勘違いだ。二人が内緒でいけない遊びにはまっているんじゃないかと心配してしまったお父さんが……」
「いけない遊びって?」
しおりが訊いた。
「つまり、その、オイチョカブとかチンチロリン、王様ゲームで裸になるとか……。その……密室の子供部屋であーんなことやこーんなことが行われているんじゃないかと……」
「もうっ。お父さんってば妄想激し過ぎ……。そんなことある訳ないじゃん」
しおりが豪快に笑って壁を叩くと、みしみしと音がして天井からすすやクモの巣、さらには迷惑顔のクモまで落ちてきた。その時、歩の部屋の向こうの家。さくらの部屋でも電話の音が響いていた。


そして、次の日は日曜日だった。日曜の朝は、子供達は早起きだ。早朝から数多くのアニメが放映されているからだ。歩は予定通り、6時20分に目を覚ました。それから素早く着替えを済ませ、窓を開ける。そして、階下へ駆けて行く。むろん、それはテレビを見るためだ。が、その日は違っていた。窓を開けるとさくらが声を掛けて来たからだ。

「おはよう、歩君」
「あ、おはようございます」
慌ててあいさつする歩にさくらが言った。
「ねえ、歩君、今日、何か予定入ってる?」
「予定?」
いきなり問われてきょとんとする歩。
「ええ。もし、何もないなら、今日一日私に付き合ってもらえないかと思って……」
彼女は天使のように微笑むと、意味ありそうに瞬きした。
「付き合うって、その……」
歩はどぎまぎしながら彼女を見つめた。

「実は、歩君にお願いしたいことがあるの」
じっと少年の目を見つめてくるさくら。
「お願いって……?」
歩は思わず生唾を飲んでさくらの魅惑的な瞳を見つめた。
「こんなこと、他の誰にも頼めなくて……。ううん。でも、無理なんかしなくていいのよ。いやなら断っても……だって、これはあまりに急なことなんですもの」
「断るだなんて、おれ……。さくらお姉ちゃんのためなら何だって……。今日は何も予定ないし……」
アニメが終わったら本屋でマンガを買い、午後は公園でみんなとサッカーをする約束になっていた。が、今となってはもう、どうでもいい約束だ。

「うれしいわ。これは歩君にしかできないことなの。歩君が来てくれたら、ほんとに心強いわ」
さくらが微笑む。
「ああ。任してよ。おれ、何だってするからさ」
歩はうれしそうにさくらを見つめた。自分が彼女の役に立てるということ、そして、彼女から頼りにされているということが彼にとっては誇らしかった。
「本当にありがとう。歩君、この恩は一生忘れないわ」
さくらはうっすらと涙ぐむ。
「そんな、一生だなんて、オーバーな……」
「オーバーなんかじゃないわ。本当に感謝してるの。でも、わたし、信じていたわ。歩君ならきっとわたしを助けてくれるって……」
さくらが言った。
「お姉ちゃん……」
歩は感激した。

「歩君、ありがとう」
そう言ってさくらは彼の手の甲に軽くキスをした。
「お姉ちゃん……」
歩の心臓は50メートルを全力疾走したよりも激しく鳴った。
「それじゃ、出掛ける支度をしてね。7時半のバスで出発するから……。帰りが少し遅くなるかもしれないけど、大丈夫かしら?」
「うん。平気。さくらお姉ちゃんといっしょなら、お母さんも文句言わないと思う」
「まあ、よかった。ちょっと電車にも乗らないとなの。もちろん電車賃とお昼は私がおごるから心配しないで。お母さんには私からもちゃんとお願いするから……」


そして30分後、二人は並んで出掛けた。歩はうれしそうだった。何しろ、今日はさくらと二人きり。いつもいっしょのお邪魔虫、しおりはいない。まるでデートのようだと彼は思った。しかも、さくらに望まれて行くのだ。そして、彼女を助けることができる。さくらからは感謝され、ずっと彼女といられるなんて、それこそ夢のような話だった。


およそ1時間後。彼らは地味なビルの一室に入って行った。小さな部屋には鏡やロッカー、机の上にはカメラやPC、ちょっとした装身具などが無造作に置かれている。
「ところで、お手伝いって一体何をしたらいいの?」
歩が訊いた。
「ええ。実はね、私、子供服のデザイナーのお仕事をしているの」
「え? デザイナー? すっげえ」
歩が尊敬の眼差しを送る。

「うふ。でも、まだ学生だし、ほんの駆け出しだからあまりお仕事がないの。だから、今日のようにせっかく声が掛かった仕事をキャンセルしたくないのよ。そんなことをしたら、二度と仕事が来なくなってしまうもの」
「へえ。なかなかシビアな世界なんですね」
歩は大人びたことを言った。
「そうよ。現実って厳しいの。それでね、今日は、雑誌に載せるための撮影があったの。ところが、肝心なモデルの子が昨日、突然、盲腸で入院してしまったって連絡が入ったのよ。もう時間がないし、その服のサイズに合う子はって考えたら、歩君が一番だなって……」
「え? でも、おれ、そんなモデルなんてやったことないし……」
戸惑っている歩にさくらはささやく。
「大丈夫。歩くんならきっと出来るわ。落ち着いてやればいいのよ。わたしが作ったお洋服を着て、カメラマンの人に言われた通りにポーズを取ってね。スタッフの人は慣れてるから親切に教えてくれるわ。それにわたしが付いているんですもの。ただ……」
と、僅かに眉を寄せて彼女は付け加えた。

「今日だけ女の子になって欲しいの」
「えーっ!」
さすがにそれには驚いた歩が尻込みした。
「で、できないよ、おれ……。だって、おれ女の子じゃないし……」
「いいえ。できるわ。歩君とっても可愛いもの。ちょっとウィッグを付けたらわからないわよ」
「ウィッグ?」
何のことだかわからない歩がきょとんとして彼女を見上げる。
「ほら、これよ」
そう言うとさくらは荷物の中からロングのかつらを出して、彼の頭にすぽっとかぶせた。
「わあ、すごい。可愛い! 思った通りだわ。すっごく似合うよ」
「えーっ。困るよ、おれ……。こんなのやれって言われても……」
歩が拒む。

「駄目なの?」
さくらが泣きそうな声で言った。今にも涙が溢れそうな瞳で訴えてくる。
「え、で、でも、おれ、ほんとに……」
歩はまるでロボットのように途切れ途切れに言った。
「気持ちはわかるわ。でも、何もしなくていいの。ただ、黙って写真を撮らせてくれたらそれで……。黙ってたらきっと誰にもわからないわ。だから、ねえ、お願いよ。私を助けて! お願い! 少ないけれどギャラも出るし、私からもお礼をするから……。お願い!」
「お姉ちゃん……」
歩は悩んだ。が、大好きなさくらのためである。スカートをはくのは女の子ばかりじゃない。一度くらい経験してみるのも悪くないと歩は自分の心に言い聞かせた。

(大丈夫だ。バレやしない。おれが黙っていれば……)
鏡の中の自分を見つめて歩は微笑む。
「ほんと、可愛いわよ。何処からどう見ても女の子にしか見えないから……」
さくらが言った。自分でもそう思えた。まさか自分だとは思わないだろうと……。
「そうだ。名前も変えてみる?」
さくらが言った。
「そうね。YUMIちゃんっていうのはどうかしら?」
「え? うん」
名前も変えておけば完璧だと歩も承知した。
「それじゃYUMIちゃん、早速スタジオに行きましょうか?」
「はい」
愛らしい少女となって、彼はさくらに付いてそのドアを開けた。


その日の午後、しおりの部屋の窓を姫乃がノックした。
「お兄ちゃん」
窓を開けると姫乃は満面の笑みを浮かべ、和菓子をたくさん乗せたトレイを差し出した。
「はい。これ、しおりちゃんに……」
「こんなに?」
おまんじゅうが三つにピンクのすあまや栗鹿の子、それに梅の花のお菓子まである。
「いいんだよ。もらって」
「姫乃お兄ちゃん、もしかして、小説が通ったの?」
しおりが訊いた。
「え? どうしてわかったの?」
姫乃が驚く。
「だって、わかるわ。お兄ちゃんがこんなに喜ぶことっていったら、きっとそうだと思ったの。ねえ、どんな賞を取ったの?」

「それが……大賞なんだ。それに、すぐに本として出版したいから次の作品も送って欲しいって依頼されちゃって……」
恥ずかしそうに言う姫乃。
「すごーい! お兄ちゃん、ほんとにすごいよ! それってプロデビューじゃない」
「うん」
「やったね! お兄ちゃん! しおりもすっごくうれしいよ。よかったわね」
「これもみんな。しおりちゃんのおかげだよ。君がずっと励まし続けてくれていたから……。本当にありがとう!」
二人は固く握手した。

「それで、どのお話で受賞したの?」
しおりが訊いた。
「そ、それは……。まだいろいろと手直ししなくちゃだから……」
「そっか。わかった。本になるって大変なんだね。お兄ちゃん、がんばってね。しおり、ずっと応援してるからね」
「うん。ありがとう」
そう言って、二人は互いの部屋へと引っ込んだ。

が、姫乃は机の前に座るとため息をついた。
「ああ、どうしよう。しおりちゃんに何て言ったらいいんだろう」
目の前のすあまに向かって話し掛ける。
「大賞を取ったのは本当なんだ。本として出版されることも、次回作を送ってくれと言われたことも……。だけど、よりによって受賞したのが過激なベッドシーンのあるBL作品だなんて……。しおりちゃんから、僕がエッチな男だと思われたらどうしよう……それで、しおりちゃんに嫌われたら、僕……悲しくて泣いちゃう」
そう言って彼はまた泣き出した。

そもそもは半年前のことだった。例の三人組にからかわれたのがきっかけだった。
――おい、姫乃、おまえ、恋愛作家になりたいんだってな
岩田が言った。
――恋愛物なんかいつもワンパターンじゃねえか
鴨井も笑う。
――何なら最近流行りのBL作品でも書いてみろよ。ほら、ここにもあるぜ。作品募集ってのがさ
吉永がけしかける。
――そいつはいいや。もし、このBL大賞ってのが取れたら、からかうのやめてやるよ
――どうせ無理だろうけどな
――そうそう。姫乃じゃ無理だよな。BLだなんて……
そう言って3人はげらげらと笑ったのだ。それが悔しかった。それで、つい言ってしまったのだ。

――わかった。僕、書くよ
――何だって?
――僕、BL作品を書く。そして、この賞に応募する。もし、大賞が取れたら、もう僕のことからかったりしないね?
――あ、ああ
岩田がうなずく。
――ほんとだね? ほんとにもう僕のことをいじめたりしないと誓うね?
――ああ。約束するよ

「約束……」
そう。それで本当に彼は作品を書き、賞に応募したのだ。それが本当にBL大賞を取った。約束通りに……。
「うれしい……。でも……」
彼は頭を抱えた。


夕方、歩が帰ってきた。撮影は大成功。さくらからも感謝された。幾らかの謝礼ももらって、言うことなかった。が、一度きりという約束だったのに、次回もまたYUMIちゃんでいきたいと雑誌の編集長から強引に言われ、断ることができずに、つい契約書まで交わしてしまった。それが唯一、歩にとっての心残りとなった。
「歩君、今日は本当にありがとう。助かったわ」
そう言って、さくらは歩の頬にキスした。少年の心は舞い上がり、後先考えずに契約書にサインしてしまったのだ。が、それでもいいと歩は思った。一回きりと思ったのに、次もまたさくらと一緒に過ごすことができる。さくらの傍にいられることが、歩にとっては最高に幸せな時間だった。それに、自分が少女としてモデルをしていることはさくらと二人だけの秘密なのだ。家族も知らない二人だけの……。が、それでも、複雑な気分には違いない。

「ありがとう。お姉ちゃん。おれ、ちょっとコンビニに寄ってくから……」
そう言って家の近所で別れた。ちょっとだけ一人になりたかったからだ。歩は沈む夕日を眺めて思う。
「このことは誰にも言ってはいけないんだ。たとえ、家族にも……」
そして、彼は落ちていた石を思い切り蹴った。
「行けーっ! あの夕日の中まで飛んで行けっ!」
巻き起こった強風に乗って石はぐーんと遠くまで飛び、公園の中に流れる人口の川に掛かった橋に当たった。そして、その欄干が割れ、小さな橋は崩壊した。そして、丁度その橋の上でたむろしていた本村、宮下、木根川の三人組が川に落ちてずぶ濡れになったことを歩は知る由もなかった。